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 のだ初・トップページ > コンテスト・トップページ > 「第3回コンテスト」エピソード部門・受賞作品
エピソード部門・受賞作品
エピソード部門は、たまごかけごはんにまつわる思い出・エピソードを募集して、感動・笑いなどを与えてくれた作品に賞を送ります。
エピソード部門 大賞 受賞者 K.Yさん(鳥取県)
賞品 「にわとりオーナー権」
当社直営農場のにわとりのオーナーになっていただき、産み初めから終わりまでのたまごと観察日記を定期的にお届けします。
私は小学生の頃、地鶏を飼っていました。
メスの地鶏で「ピピ」と名付け、2歳年上の姉と2人で育てていました。

鶏は小学校の飼育当番でしか世話をしたことがなかったし、両親には「2人でちゃんとご飯をあげるし、可愛がるから飼わせて!!」と言って飼うことを許してもらったので頼るわけにもいかず、毎日毎日試行錯誤を繰り返して世話をしていました。

ピピが家に来て以来、私たち姉妹の生活は変わりました。
学校に行くのがギリギリになるくらい毎日遅く起きていた私が、毎朝早起きをしてピピに新しい餌と水をやり、学校からは走って帰ってきてピピと遊んでいました。
ピピが家に来るまではテレビ大好きだった私が、あまりテレビを見なくなりました。テレビがいらない程、私はピピに夢中になっていました。

そんなある日、ピピが餌を残し、苦しそうに鳴くようになったのです。とても心配になった私と姉は、学校の図書室の本を色々調べました。「もしかしたら、ピピは本に載っていないくらいすっごく悪い病気なのかもしれない…」「ピピ死んじゃうかもしれない…」私たち姉妹の頭には最悪な事態ばかり浮かんでいました。
「何があってもピピを助ける!!」そう決めた私たちは毎日色々なことを試しました。
雑草を摘んできて食べやすいようにつぶし、無人精米機から出てくるぬかと水と混ぜ、丸めて乾かして作った「特製元気団子」を作り与えたり、普段与えている餌を食べやすいように細かくしたり、ピピの小屋の中には藁を敷き詰め体が冷えないようにしたり。
2人で考え思いつくことは全て試しました。

ピピの元気がなくなってからピピの小屋を見る前は「お願いだから元気になってて!!絶対に死んでいないで!!」そう願うようになっていました。

2人の努力の成果か、2週間後ピピは前のように元気に餌を食べるようになりました。
ある日、いつものようにピピの小屋の中を見たら、藁の上に白いものが落ちていることに気が付きました。
「なんだろう…??」近づいて見ると、なんとピピの卵でした。「ピピよくやったね!!ありがとう!!」ピピの卵だとわかった途端、2人で大騒ぎをして喜び、嬉しくて泣きながら2人で何度もありがとうを言いました。

お母さんに報告し、その夜の晩ご飯に食べることになりました。
「お母さん何作るんだろう??」「オムレツかなぁ〜??」晩ご飯まで2人でピピの卵が何に変わったのか想像しました。
「ご飯だよ〜」お母さんの声で食卓につくとピピの卵は殻のまま置いてありました。びっくりした私たちは「なんで卵そのままなの??ピピの卵食べないの??」と抗議しました。すると、お母さんは「ピピの生んだ1番最初の卵だから、味が1番わかるたまごかけごはんにしよう」そう言いました。ピピの卵を大事に割り、2人ではんぶんこをして食べました。
「おいしい!!いつもの卵よりおいしい気がする。」私が言うと、「それは2人で一生懸命育てたピピの生んだ卵だからだよ。」と教えてくれました。

ピピがいなくなった今でもたまごかけごはんを見ると、ピピとあの日の味を思い出します。
あの日のたまごかけごはんは、どんな料理にも超えられない味でした。

【コメント】
普段何気なく食べているたまご、実はあの一つひとつのたまごは鶏たちが一生懸命産んだ命なんですね。そんなたまごに対して、鶏たちに対して、感謝いっぱいのこの体験談に感動しました。
たまごに限らず、全ての食べ物、作ってくれた生産者、料理をしてくれた人に感謝することを忘れてはいけないと改めて考えさせられた作品です。
ぶったま賞 受賞者 A.Yさん(神奈川県) 賞品「宝山窯備前焼 ぶったまごはん碗」
私が学生の頃に経験した“ママチャリの旅”の話です。

大学2年生の頃に1年間続けたサークルをやめ、日々の目的を見失っていたときに、これではいけないと思いなにかに挑戦しようと思い立ちました。
そこで幼馴染2人と実家のある千葉県から沖縄を目指し、“ママチャリの旅”を決行しました。学生でしたしお金もあまりなく、使うときは使う、その他は出費を切り詰めるといった極貧の旅でした。そのため、夕食などはスーパーの見切り品などをよく活用したのを覚えています。寝床は寝袋を使って野宿の毎日です。

千葉を出発してから、箱根を越え、琵琶湖沿いを走り、何度も山越えを経験しながら、1日約100キロほどママチャリで走り、約2週間かけ九州入りしました。
その頃には、ママチャリで走ることに慣れるとともに、疲労も相当蓄積していたんだと思います。鹿児島県に入る直前に熊本県から入来峠という峠を越えました。その途中に宮之城という温泉場があり、時間も遅かったので温泉に入り寝床を探していました。その大衆浴場で受付をしていたおばさんがとてもいい人だったのを今でも忘れません。

「ここらへんに野宿できそうな場所ありませんか?」と尋ねたところ、「そんなところは無いねぇ」とそっけない態度。無愛想な人だなと感じつつ温泉に入りました。1時間程して温泉からあがった時におばさんから「警察にお願いしたら剣道場が使えるみたいだよ。よかったね。」と。どうやら私達が温泉に入っている間に色々あたってくれたようなのです。
「ありがとうございます!!」とお礼をいい警察に向おうとしたとき、さらに「私が直接なにもしてやれなくてごめんね。これでご飯でも食べて」と2千円くれました。
もちろん、寝床まで見つけてもらい感謝の気持ちでいっぱいなのに、申し訳なくて受け取れないと断りました。「いいのよ。遠慮なく使って。」と手渡され、その2千円をもらうことにしました。

温泉に入ったことと、室内でぐっすり眠れたことで次の日はすっかり回復し、峠の残りを鹿児島新港を目ざし、ママチャリで越えました。沖縄行きのフェリーが出発するまで時間があったので、昨日おばさんに頂いた2千円を使ってランチ定食を食べることにしました。そのランチ定食で何気なく食べた“たまごぶっかけご飯”。
まともなものをあまり食べていなかったこと、ある意味ゴールである鹿児島新港に到着した安心感、そして人の優しさ・温かさをくれたおばちゃんに対する感謝の気持ちのせいか、ご飯を食べつつ自然と涙がこぼれてきたのをよく覚えています。

当たり前のものを当たり前に食べられることがどれだけ幸せか感じることができた旅でした。
現在、仕事の関係で中東にいるので当たり前のものを食べることができません。日本に帰ったら、たまごをかき混ぜ、しょうゆをたらし、テレビでも見ながらのんびりと“たまごかけご飯”でも食べたいものです。
ぶったま賞 受賞者 S.Fさん(兵庫県) 賞品「宝山窯備前焼 ぶったまごはん碗」
小さい頃の私は、虚弱体質で食も細く「棒切れみたいな手足やねぇ。」と、よく近所の人に言われたものでした。
小学校の給食でも、なかなか食べ終えることができないため、困った先生が私だけ一番に配膳して他の子よりも先に食べ始めてもいいという特権を与えてくれたほどでした。

家庭でも、いつも食事に時間がかかってしまいます。おかずは何とか食べられても、最後に残った白いご飯で、いつも悪戦苦闘していました。時間がたつにつれ、ご飯は冷え、表面は乾燥してきて、ますます味気なさそうに見えます。
無理矢理に少しずつ口に運ぶのですが、茶碗の中身は一向に減っていきません。

そんなある日、見るに見かねた母が私の目の前の茶碗から冷めたご飯を自分の茶碗に移し、炊飯器からアツアツのご飯をよそい直しました。不思議にそうに見ている私の目の前で卵を器に割り、しょうゆをチョロチョロっとたらし、慣れた手つきでかき混ぜます。その卵をトロっとご飯のうえにかけてかき混ぜると、あっという間にツヤツヤ輝く卵かけごはんが出来上がりました。 

さっきまでのパサパサごはんとは違い、まだ湯気の上がる卵かけごはんの魅力的なこと! 
ひとくち口に入れると、「ん?」おいしい!それまでお腹いっぱいで食べられないと言っていた私が、パクパク、パクパク、あっという間にお茶碗は空になり「おかわり!」と言った時には、母は予想外の効果に笑い出したほどです。

それから、卵かけごはんは私の定番になりました。毎晩、夕食の時に、食卓の私の席の前にだけ生卵が置かれていました。
味付けも自分なりに、少しずつ工夫するようになり、絶妙の配分のだしじょうゆとあら塩をひとつまみ入れるのが、私なりのこだわりでした。

そうして毎日、卵かけごはんを食べていたせいか、中学校に上がるころには、徐々に体も丈夫になり、学校を休むことも少なくなりました。
そして、何より、給食もクラスの皆と一緒に「いただきます」「ごちそうさま」ができるようになっていました。
いつものご飯にしょうゆを入れた卵をかけるだけ…。でも、これが魔法のレシピなんですね。
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